動画編集のためのパソコン

本日動画編集のためのパソコンについて相談があった。というよりある企業にてプロモーションの為に動画配信をしたいのことで担当者にその役を振られたわけだが、その担当者もあまり詳しくないために相談されたわけだ。

そこで問題になるのは、ハードウェアー。会社から支給されたのはノートパソコンだが、正直普通のノートパソコンで快適に編集できる訳ではない。

性能の低いパソコンでは、編集時の動画にコマ落ちと呼ばれる表示できない症状が出たり、最終的な動画の書き出し(レンダリング)にやたら時間がかかる。

これはソフトにも依存するが、Adobeの有名な動画編集ソフトPremiereを使いたいなら普通の事務用のPCでは動かないと思ったほうがいい。

そこまで高性能でなくても動くビデオ編集ソフトもあるが、プロが使っている様なソフトの場合、パソコンの性能もそれなりの要件がある。

特にグラフィックボードと呼ばれる部分の部品には高性能を求められ、高価なグラフィックボードの場合パソコン本体より高い事もある。

仕事を振った上司にはその様な知識があると思えない。

一般的にはタブレットやiPhoneでも編集が可能なため、パソコンでも簡単にできると思っているだろう。しかし、実はiPhoneのCPUと呼ばれるエンジンはパソコンより高性能な部分があることを知らないだろう。

よって、パソコンで本格的な動画編集をしたい場合、20万程度の高性能パソコンが必要となる。それを購入してくれるのか?この点は問題だ。

もちろん。Power Director などの汎用動画編集ソフトなどを使えば、スペックの低いパソコンでも編集は可能だ。これらは編集用の中間ファイルを作ることでそれらを実現しているが、あくまでもアマチュア向けなのである。

 

集団の業と如何に向かい合うのか?「宗教2世 親に束縛された人生からの脱出」を見ての感想。

昨日たまたまNHKで放送されていた「宗教2世 親に束縛された人生からの脱出」という番組を少しだけ見ることができた。

なかなか番組自体も攻めた内容で、この時期こういった番組が放送される事自体その企画者に拍手を送りたい内容だった。

その中で思想的に閉じた世界に身を置くものにとって、その価値観はそう簡単に開放されないという事を言っていたが、それは何も彼女のような環境でなくても存在している。

我々が社会として認識している外界は、もともと作られた概念に過ぎず、それが「常識」などという衣を身にまとっているように見えても、個人である私の認識が変わればその「常識」も変化する。

つまり、例えば会社だったり学校だったりそういった集団においての常識は、私がその集団をどう捉えるのかで変わるのであって、そこに真実があるかないかはあまり関係ない。

完璧と言えるような理論を作るのは簡単だ。

それにはループがあればいい。ループというのは最終的に「それが決まりだから」「それを信じるのが当たり前」だといえばいいだろう。

それらループにハマってしまえば悩む必要はなくなるわけだ。「会社だからこういうもんだ」「学校だからこういうものだ」そういった思考法は楽なのだ。

そうなればいつの間にか自分というものは消え去り、大義が優先される。しかし、その大義とは誰かに与えられたもの。

「それで生きているといえるのか?」

多分、渦中にいる人にはそれら言葉は届かない。だってそれもまたその人の選択であり、違う価値観の中で生きているからだ。

問題なのは、そういった事を本当に理解して選択できているかだ。

人はみな自分が正しいと思いたいがために、そういった違う価値観に対して敵対的感覚をもってしまう。

この「正しい正しくない」という概念が実は多くの不幸を導き出している事を忘れてはいけない。

大学生のとき仲の良かった友人が某新興宗教にのめり込んでいくのを体験した。最初、政治活動はしないと言っていた友人も1年たつと、路上に立ってビラ配りしていた。

彼にそんな活動をやめろとは言わなかったが、何かと理由をつけられて一緒に集会にも連れて行かれた。そういった集団の中に入ればどうしても他と同じことをしなくてはいけないので、念仏を一緒に唱えることも多かったが、ひねくれている私は、だからといってその団体の全部を信用できなかった。

教義と団体の行為は別のものだ。

いくら教義が素晴らしくても、それまでその団体が何をしてきたかを見れば判断がつく。最初の思いが素晴らしいものでも団体になれば団体の業というものが生まれる。

であれば、ヒエラルキーを作るような教団とは距離をとり、個人としてその教義を勉強したほうがいいというのが私の考えだった。

団体運営のために組織化が始まれば、そこに個人としての格差が生まれ、個人をないがしろにするような集団の利益を優先してしまうかも知れない。

そういった事は多くの歴史も証明している。

大学まで布教に来た10人近くの教団の方々と議論したが、結局彼らの論点は教祖の言葉を信じるから教団員であるという部分でループしていた。

それは違うのではないか?

教祖の言葉は重要でも言葉を使う限りその解釈に間違いは起きる。全て疑うことも大事だというのが私の当時の論点だった。

だからやっぱり噛み合わない。

大学生のときに読んでいた本が少し変わっていた。それはニュー・サイエンスとか呼ばれるもので、フリチョフカプラの「タオ自然学」とかラブロックの「ガイア仮説」などであった。それら内容はSF小説好きだった自分にとって、より高密度なSFを読んでいるように思われた。

それらの文化は西洋的な科学と東洋の哲学の融合だったり類似点を元に物事を有機的に再構築するやりかたで、今でも自分の価値観の根幹をなすと思っている。

そんな本ばかり読んでいたため、友人からは宗教思想にもつながるタイプだと思われたのだろう。手を変え品を変え勧誘が続いた。

自分にとっては、宗教も生きるための哲学の一つだと思っていたのでそこに感情的否定の感覚はない。しかし、事、現実の中で行われている活動になれば、それは行き過ぎなのではないかと思えることも多々あった。

政治活動を始めた友人にそれとなく尋ねた。

「君は学生の間には政治活動はしないって言ってなかったっけ?」
「いや、正しい真理が理解できたらそれを実現しないといけないじゃない。だから日本を根本から変える必要があると思うんだよね」

ああ。まただ。正しい真理とはなんだろう?

もし真理というものがあるとしても、それは相対的なものであって、全ては変化するという事実のほうが真理ではないか?と、考えたが、その事を告げることはしなかった。

その後も彼は布教活動に没頭し、大学にも来なくなった。それと同時に彼との縁も薄くなった。

彼ら団体の上の人から、「浅川くん、それだけ理解していて、我々と共に歩けないなんてもったいないよ」などとも言われたが、自分が何かを理解できているとも思わなかった。

そこにあるのは、仲良かった友人と疎遠になったという事実だけだった。

コロナ被害から脱却。過去最高の売上となった居酒屋を取材

今回の東京出張で新型コロナ問題にて大打撃を受けたのち、V字回復を成し遂げた居酒屋の取材を行った。

ロックダウンに近い状況になった東京の居酒屋として、数ヶ月の閉店を余儀なくされ、其のための負債が今でも経営を圧迫している。

しかし、前出の様にこの10月は過去最高の売上となったわけだが、そのために行ったのが徹底的なクラスター防止対策。そのコンサルティングを私達が作ったNSSという会社の東京チームが対応している。

現実的はまだまだそれらの対策は途中であり、実施にはそれなりの予算と時間もかかるのであるが、売上が戻っただけでも経営者にとっては希望の灯が見えたということなのであり、将来へ向けての新たな出発が出来るというものだ。

大手であっても、コロナ終息後の売上回復に関しては100%に戻すのは難しいという認識が多いと思うが、その中において既に100%を超えた売上を計上しているのだから優秀だろう。

それでは我々が何を進言し、指導した結果そうなったのか?実際は店舗ごとにそれら分析結果は違っていて、対策も違うことで一般論としてここに書くことは難しい。

ただ多くの人が導入出来るように初期費用を低価格した上で各種補助金との組み合わせで無理のない参加ができないかと思っている。

これからしばらくはそういった資料作りにも追われることになりそうだ。

フラクタルCG

フラクタルCGアーティストとしてのブランディングをちゃんとやんないとなぁと思っていてい色々リサーチ中。

このサイトはサンストリームというアメリカのバンドのウェブでジャケット写真に私が作ったフラクタルCGアーティストが使われている。なかなかいい感じで切り取ってあってセンスいいなと思う。

https://sunstream.bandcamp.com/album/digital-landscapes

シナリオを前提とした論議が出来ない

先程Abema.TVのニュース番組を見ていてコメンテーターの宇佐美さんが言っていたことに深く納得。要約すると以下の様な内容。

「日本の場合の安全保障などの問題に対して、例えば”戦争が起きるかも知れない”といったシナリオを前提とした論議が出来ない。つまりそういった問題を掲示した時点で議会が紛糾してしまい議決にまで行き着かない。」

確かにそういったネガティブな予想を元にした論議というものが難しいのが日本の政治や企業を含めた集団なのではないかと思う。

今回のCOVIT-19の問題でも、発生時に十分論議されたとは言えず、感染が広がってからやっと動き出したという感じだ。それでは国家としての安全保障は低いレベルにあると思う。(原発問題にしても同じだ)

私自身FBにそういったネガティブな事を書くとき多少ためらいを感じるし、できれば馬鹿な記事だけ書いていたいと思うのではあるが、その感覚自体がすでに日本的慣習に毒されているのではないかと思う。

その反面、危機感を煽って商品を買わせるというのがTVCMなどの常套手段となっているのも日本の実情だ。「ほらほら、こんなにバイキンだらけのトイレを除菌一発!」みたいなCMが非常に多い。

そういった世論の反応を前提に様々な法案が密室で決定されている可能性も高い。勿論、民主主義がどんな場合でも最善の決定をできるものだとも思わない。

ある点では、独善的決定のほうが良い結果をもたらす場合もあるだろう。ただもう少し我々自身が否定的予測や問題に関して冷静に判断できる素地を作る必要があるだろう。

写真撮影:2018/3/3 草千里深夜

SF映画について

SF映画を基本とした年代記の番組を見ているが、それを見てなぜ自分がSFに惹かれるのかを再確認できた。端的に言えばそれは生命における哲学であると言えるからだろう。

生命の存在をフィクションという虚構性を持って、多元的に捉えていくことで、日常的な視点以外の解釈が可能となっていく。

もちろんそれは、一般的な生活の範疇でも思考可能なのだが、その条件などが極端に偏向しているがゆえに想像は広がる。

つーか簡単に言えば、物事を同じ方向から見ても同じモノにしか見えないけど、視点を変えると別のものが見えたりして、より良く理解できる可能性を持っているということね。

これはアートも同じ。

そうして理解することで、その根底に流れる秩序とは何かを感じ感動したりするわけ。その感動とはとても根源的な何かであったるする。

もちろん、日常的ドラマの中でもそういったものはあるけど、SFという視点で語られると、より感覚的になる。なぜならそれは非日常的舞台上で行われているので、そこに想像力や直感力が必要なのだ。

よくできたSFに作品はそうして、意識より無意識に働きかけていく。

やっぱり関わった人が傷つくのは嫌だ。

過去の自分がそうであったように、目前の私を持て余し、それによって他者を傷つけるような言論と行動を取る人を見るとなんとかしたいと思う。

もちろんそんなことはできない。

もし、それを実行したいと思うなら、色々なことをすべて引き受ける必要がある。それが今の自分に可能かどうか?そこに覚悟がなければ動くこともできないだろう。

とはいえ、ただ手をこまねいて見ているだけというのは違うだろう。

今の自分を冷静に捉えつつできることを見つける。

要は諦めないことだ。

何かをして失敗を繰り返し、そこで学ぶしかない。

 

コンピューターは魂の入れ物たり得るか?

その昔友人とコンピューターは魂の入れ物たり得るかと言う議論をしたことがあります。多分10何年も前の話。

そこでは、今のコンピューターではそれは無理だろうと言うのが私の結論でした。

その理由として現在のデジタル処理の持つ根本的な生物との違いです。例えば私たち人間の脳は情報を処理する際に電気パルスとホルモンの2つを使ったハイブリット構造になっています。

つまりデジタルとアナログ両方が必要とされているわけです。例えば電気パルスのようなデジタル信号だけではなぜ駄目なのか?

その理由はよく分かりませんが、現実としてそういったハイブリットであると言うことが知られているわけです。それに対してコンピューターは2進数の数字によって情報処理しています。0か1の世界ですね。

入力と出力はアナログになりますが、情報を処理している間は、中間的な曖昧さがないデータとして処理されます。

コンピュータは我々の精神活動の1部をシュミレートして発達した道具です。そのために脳の機能を全て再現できるわけではありません。

最近では人工知能が進化して人間の生活を脅かす可能性などに関しても論じられていますが、それが知能ではなく知性を持つと言う事は考えづらいと思っています。

現在の人工知能ではあくまでも学習に基づいた高度な推論が可能と言うことであって、それらの評価基準等には人間の手がどうしても必要になったりします。

これらが以前もてはやされたファジー素子や量子コンピューター等がさらに一般化し改良されたときにはもしかすると新たな出来事が発生するかもしれません。これら基本的な仕組みには0と1だけでなくその中間の値を処理できるものが含まれています。

こうなってくると、先に書いた人間の脳との類似性が高まるわけです

新しい価値を創造し守る事。

アートにしても仕事にしても「新たな価値を見つけ出し作り出す」という事が重要になってくる。

それと対になって、「それら価値を維持し守る」も存在している。そのどちらを主にやるのかはそれぞれの役割であり選択であろう。

宇宙の仕組みとして、すべては最終的に混ざり合い平衡状態となりエネルギーは消滅する方向に向かうのだが、そのカオスに対抗しているのが生命であると言える。

それはつまりすべては消えゆく運命であるにも関わらず、そこに秩序をもたらし波(出来事)を起こし、継続させるのが生命だという事だ。

それは基本的なプログラムみたいなものであって、そのまま存在意義となっている。

私たちが自分の存在の意義を考えるとき、こういったマクロな視点で見ることは少ない。相対的社会的関係性から自分を測って存在する意義がないとかあるとか言っているが、そんなことを超越してそこに意義はある。

もっと言えば存在していることは奇跡でもあるが、それと同時にそこに善悪もない一つの現象だと言えるだろう。それを認められれば存在意義になどに悩む必要もない。

それら要素の一つとしての霊的存在などに関しては現世ではよく分からないし、あまり語るべき事もないが、そのような存在があっても、不思議ではない。

それらは先人の多くの師たちが共に認めている。

そのうえで存在するのは「今」しかないと考えるべきだろうし、今何をするのかですべては決まっていく。基本プログラムを理解し、新たな価値を造り続け、守っていく。これが出来ると「私」という命も納得するのだと思う。